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新垣カミ菓子店は、約200年前の琉球王朝時代に、王府の包丁役(料理方)を拝命されていた五代前の父祖、新垣親雲上淑規(あらかきぺーちんしゅくき)が開祖であります。当時の琉球王朝は、日本と中国との両属関係にあり、中国とは主従関係を保ちながら大貿易時代を築いていました。中国からは、冊封使(使節団)が来琉、長期にわたり滞在し、その間琉球政府は、できるだけの歓待をし、また、中国から多くのことを学びました。その1つが中国菓子の製法です。さらに、琉球王族が日本へ渡ったときに随行した父祖は、石原嘉右衛門や柳屋善太郎の両氏により日本菓子の製法を教わりました。この日中両国の菓子製法の技術を取り入れて琉球独特のお菓子を作り上げたのが、琉球王朝伝来のお菓子であり、当時は琉球王家御用達で貴重なお菓子でした。一般に普及し始めたのは廃藩置県後で、今日まで祖先の製法がそのまま伝えられています。さらに、琉球古来からの製法に加えて良質の原料を使用し健康で安全な伝統菓子として今なお手作りで生産しております。





簡単な系図ですが父祖、新垣親雲上淑規より→新垣カミ→新垣淑伸(先代の代表者)までを表したのが右の図です。
※系図は現在、首里城に展示されているものです。

新垣親雲上淑規→読み:あらかきぺーちんしゅくき
親雲上(ぺーちん)とは王朝内の上流階級です。


先代の新垣淑伸(あらかきしゅくしん)










■ 1900(明治33)年

首里区当蔵に宮城猛安の一人娘として生まれた。
生家は王朝時代に親雲上(ペーチン)職を賜上う流階級で、父猛安が尚家勤めだった縁で、カミは尚順男爵の娘チーアン(守姉)として、13歳から18歳まで屋敷(現在の松山御殿)に奉公にあがっていた。

■ 1918(大正 7)年

当時、チンスコウや花ボールといといった琉球菓子は、王家や貴族しか口にすることのできない高級品である。カミは、首里赤平にある尚家代々の御用達菓子店「新垣菓子店」へよく菓子を買いに使わされていた。菓子が取り持つ甘い縁といったところだろうか、カミが18の年に菓子店の子息新垣淑正と結婚し、三男三女をもうけることになる。嫁いだ日から家業の菓子作りを伝授され、夫と共に菓子製造、そして主婦業に子育てと、休む間もなく働いた。

■ 1934(昭和9)年

順調に店が成長を遂げる中、夫の淑正が35歳の若さで急逝、末の男児が誕生して間もない頃でもあった。それからというもの、6人の子供たちの父ともなって、今まで以上に働き、一家を支えてゆくのであった。

■1945(昭和20)年3月

戦時中は菓子原料の入手が困難となりやむなく中断、最後の疎開船で大分県松岡へ移り住む。そこでは菓子作りの技術を活かし、疎開者たちに蒸し饅頭の作り方を教えたり、また、自分の着物を売るなどして手に入れた食材を使って菓子を作り、遠く別府市まで立ち売りにも出かけた。食料難の時代にあっても、カミは一家の大黒柱として強くたくましく生きていく。戦後間もなく沖縄へ戻るが、首里一帯は焼け野原。幸いにも家族は全員無事で、カミの戦後はここから始まる。

■ 1949(昭和24)年

その年の暮れ、カミは、女でひとつで再び赤平の地に菓子店を開業した。
「昔からの味は絶対に変えてはいけない。お客に対しては、常に立派な菓子をお出しするのがあたりまえ」と、かたくなまでに伝統の味を守り、その味と技術を子供たちへ伝えていった。働き者のカミはまた、人情深く、信仰に厚い女性でもあった。沖縄の女性には重労働でもある行事の際の手間のかかる料理もまめにつくり、また、わかいころ世話になった尚家へも、毎年欠かさず線香を上げに行くなど、先祖を敬う心を決して忘れなかった。

■ 1981(昭和56)年8月17日

18歳で新垣家へ嫁ぎ、以後60有余念ひたすら家業の琉球菓子製造とその伝授に励んできたが、1981年8月17日、その生涯を閉じた。享年80歳。
戦前、戦後を通して、菓子作りの職人として、6人の子供の母として、自分の足でしっかりと人生を歩んだカミ...。カミについて語る子供たちの瞳には、母親に対する尊敬の気持ちがあふれていた。

戦後50年おきなわの女性のあゆみより抜粋
財団法人おきなわ女性財団
編集「戦後50年おきなわの女性のあゆみ」編集委員会
(宮城祐月)


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