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■ 1900(明治33)年 |
首里区当蔵に宮城猛安の一人娘として生まれた。
生家は王朝時代に親雲上(ペーチン)職を賜上う流階級で、父猛安が尚家勤めだった縁で、カミは尚順男爵の娘チーアン(守姉)として、13歳から18歳まで屋敷(現在の松山御殿)に奉公にあがっていた。
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■ 1918(大正 7)年 |
当時、チンスコウや花ボールといといった琉球菓子は、王家や貴族しか口にすることのできない高級品である。カミは、首里赤平にある尚家代々の御用達菓子店「新垣菓子店」へよく菓子を買いに使わされていた。菓子が取り持つ甘い縁といったところだろうか、カミが18の年に菓子店の子息新垣淑正と結婚し、三男三女をもうけることになる。嫁いだ日から家業の菓子作りを伝授され、夫と共に菓子製造、そして主婦業に子育てと、休む間もなく働いた。
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■ 1934(昭和9)年 |
順調に店が成長を遂げる中、夫の淑正が35歳の若さで急逝、末の男児が誕生して間もない頃でもあった。それからというもの、6人の子供たちの父ともなって、今まで以上に働き、一家を支えてゆくのであった。
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■1945(昭和20)年3月 |
戦時中は菓子原料の入手が困難となりやむなく中断、最後の疎開船で大分県松岡へ移り住む。そこでは菓子作りの技術を活かし、疎開者たちに蒸し饅頭の作り方を教えたり、また、自分の着物を売るなどして手に入れた食材を使って菓子を作り、遠く別府市まで立ち売りにも出かけた。食料難の時代にあっても、カミは一家の大黒柱として強くたくましく生きていく。戦後間もなく沖縄へ戻るが、首里一帯は焼け野原。幸いにも家族は全員無事で、カミの戦後はここから始まる。
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■ 1949(昭和24)年 |
その年の暮れ、カミは、女でひとつで再び赤平の地に菓子店を開業した。
「昔からの味は絶対に変えてはいけない。お客に対しては、常に立派な菓子をお出しするのがあたりまえ」と、かたくなまでに伝統の味を守り、その味と技術を子供たちへ伝えていった。働き者のカミはまた、人情深く、信仰に厚い女性でもあった。沖縄の女性には重労働でもある行事の際の手間のかかる料理もまめにつくり、また、わかいころ世話になった尚家へも、毎年欠かさず線香を上げに行くなど、先祖を敬う心を決して忘れなかった。
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■ 1981(昭和56)年8月17日 |
18歳で新垣家へ嫁ぎ、以後60有余念ひたすら家業の琉球菓子製造とその伝授に励んできたが、1981年8月17日、その生涯を閉じた。享年80歳。
戦前、戦後を通して、菓子作りの職人として、6人の子供の母として、自分の足でしっかりと人生を歩んだカミ...。カミについて語る子供たちの瞳には、母親に対する尊敬の気持ちがあふれていた。
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戦後50年おきなわの女性のあゆみより抜粋
財団法人おきなわ女性財団
編集「戦後50年おきなわの女性のあゆみ」編集委員会
(宮城祐月) |